Masuk胸に痛みを感じた俺が涙目で顔を上げると、驚いたことに当時の部屋にいて、側には由宇子がいた。 えっ? 俺は夢を見ているのか? 脚を抓《つね》ってみた。 イタイっ! 元妻が言った。「ねぇ、会社からの強制じゃないなら単身赴任は止めてもらえない?私も子供たちを連れて一緒に行ければいいけれど、こちらで自営(税理士)のお客様もたくさんついてるし、子供のこともあるし何年で帰ってこれるかだけでも確定していれば、策も練らられるけれど、それも分からないでしょ? 中途半端でまたこちらに帰ってくることを考えたら、就学時期を跨ぐ形になる子供たちにも大きな負担を強いることになるし――。だからってあなたにすぐにひとりで行かれたら私、不安だわ。 いろいろと……」 あの日と同じ台詞だ。 夢か幻か……エエイっ、夢幻でもいい元妻が俺に不安だと言ってるんだ。 ちゃんと答えろ、オレ。「分かった、わかったよ。 仕事も大事だが君と子供たちが一番大切だからね。 俺も家族とは離れたくない。 すまない、この話しは忘れてくれ。 これまで仕事優先にしてきて申し訳なかったな。 これからもよろしくお願いしたい」「あーっ、よかった」 元妻は涙目で言った。「あなたが単身赴任決めちゃったらどうしようかって思った。 私たちのことを一番に考えてくれてほんとにうれしいわ。 ありがとう。 力一杯お仕事させてあげられなくてごめんなさい。 私のほうこそ、これからもよろしくお願いいたします」 俺たちの間には暖かい空気が流れていた。 どうなってるんだ? 俺は時空の違うふたつの世界を行ききしたのか? それとも単なる夢で、ずっと夢なのか。 そのまま俺は元の家族との夢の中? での生活が続いた。 会社でも俺は単身赴任しておらず、別の者が内定し単身赴任先へと旅立っていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 月日は流れ8年後 そして会社の件の同僚女子は独身のままだ。 このままだと以前というか、別ワールドで単身赴任先から帰ってきた後の彼女との会話も勿論ないのだろう。
それは単身赴任を受ける話をした日の、元妻の姿と反応だった。 俺は妻のことを知らず知らずのうちに、蔑にしてたのだろう。 あの時、由宇子は俺に何かをポソッと呟いてた。 俺はソコを華麗にスルーしていた。 どうして今になってそのシーンが蘇ってきたのだろう。 大事なことだからかもしれない。 俺は由宇子の呟きを思い出そうと努力した。 何度か記憶を手繰り寄せてはその声無き声を聞き取ろう、思い出そうとした。 まずは前後の会話を思い出すことからはじめてみた。 ◇ ◇ ◇ ◇「ねぇ、会社からの強制じゃないなら単身赴任はやめてもらえない? 私も子供たちを連れて一緒に行ければいいけれど、こちらで自営(税理士)のお客様もたくさんついてるし、子供のこともあるし。 何年で帰ってこれるかだけでも確定していれば、策も練られるけれど、それも分からないでしょ? 中途半端でまたこちらに帰ってくることを考えたら、就学時期を跨ぐ形になる子供たちにも大きな負担を強いることになるし……。 だからってあなたにすぐにひとりで行かれたら私、不安だわ。 いろいろと……」*「今までだって単身赴任のようなものじゃないか! 申し訳ないとは思うけど、長時間勤務や出張で子育てには参加できてないし、ただ寝に帰ってるようなものだしね。 心配しなくてもあんまり君たちの環境は変わらないと思うよ?」 あっ、そうだった。 俺のこの台詞のあと、元妻が何かぼそっと言ったんだった。 俺は頭の中で繰り広げられる過去の会話の中の肝心の元妻の次の台詞をじっと待った。「そっか、ならいいや。もういらないや」 あの時は聞く耳持たずスルーしていた元妻の言葉が、すっと耳にはっきりと入ってきた。「ならいいや、もういらないや」 あの時、元妻は俺のことをもういらないとはっきり言っていたのだった。 大切な元妻《ひと》からの大事な言葉を、いとも簡単にスルーしてた自分の態度に、頭を抱えたくなった。 頭の中がガンガンしはじめ、胸が苦しくなってきた。
あんなに仕事が好きだった俺。 なのに、どうにも意欲が湧かない。 独身になったのだから……身軽になったのだから……もう子供のことや家庭のことにも時間を割いて欲しいと懇願されることもなくなり、煩わしさから解放され思い切り仕事ができるというのに、全くヤル気が出ない。 おかしいじゃないか! 単身赴任と同じようなものじゃないか。 この8年間シングルと同じような生活でガンガン仕事をこなしてきたのに。 いや、違う。 同じなんかじゃないことは、己が一番よく知ってるだろ? 確かに独り身で子供や妻のために時間を割く必要もない。 だけど大きく違うものがあった。 父親として慕い夫として頼りにしてくれてた子供や妻が、もう俺とは違う誰かを慕い、頼りにしているっていうこと。 他所に幸せを求めて俺の元から去って行ったということ。 今の俺は誰かに慕われることもなく、頼りにされることもない。 そう、愛してくれる家族がいないっていうこと。 俺はこんなことになるまで、こんなにも家族の存在が俺を元気付け、安心感をもたらしてくれるものだとは気付けなかった。 仕事を思い切りするには、家族のことは足枷にこそなれプラスにはならないと傲慢なことも考えていたけれど、ものすごい勘違いもいいとこだった。 子供たちと妻がいたから仕事に生きがいを感じることができ、ヤル気も出ていたのだ。 そんな風に自分の大いなる思い違いを後悔している時に、あるシーンが唐突に蘇った。
元夫はどうしても単身赴任したかった。 私はどうしても行ってほしくなかった。 私たちの元に居て欲しかった。 だけど、私は好きな夫《ひと》の邪魔もしたくはなかった。 どうしようもないじゃないの。 だから別れた。 異性関係の心配ばかりしているような生活は嫌だった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 俺はあっち《単身赴任先》でもやらかして、由宇子はきっと自分の選択は間違ってなかったと改めて思ったことだろう。 自分としては微塵も浮気心はなかったとの想いが、胸の内にあるが。 微塵も? 自分の胸に今一度問うてみる。 異性と同じ部屋にいることに対する心地よさは? ゼロだったとは言いがたいかも。 しようがないじゃないか。 若くて綺麗な同僚と1つ同じ部屋にいたのだ、少しくらいうきうきした気持ちになっても。 だが由宇子はそういうのも嫌だったのだろう。 まさしく浮かれた気持ちさえも。 俺の気持ちは全部、由宇子に向けていて欲しかったということ。 それは裏返して突き詰めてみれば、俺は由宇子からそれほど愛されてたってことだ。 今なら分かる。 こちらに帰って来て事情を知った同僚から言われた言葉。*「奥さんも付いて行ければよかったのにね」 当時俺は逆にそこには拘っていなかった。 むしろ喜んでた節があるくらいだ。 思い切り独身のように仕事ができるって。 俺って詰んでたんだな。
赴任先から帰り、離婚されていた話を聞いた日から一度も顔を見ること叶わない由宇子を、ひと目見たいと思い子らの面会で別れたあと、そっと薫くんと子らの後をつけた。 由宇子は公園で待っていた。 由宇子は一番下の子を抱いている。「さぶいねぇ~、ミ~キ」 そんな呟きを子に向けて語りかけている由宇子の背中を、聞いていた薫くんが背後から腕を回し包み込んだのが見てとれた。「あったかぁ~い」「でしょ?」「「ふふっ、ははっ」」 ふたりの笑い声。 そのふたりの周りで子らは安心しきって両親の側で遊んでる。 しばらくすると子ら3人も薫くんに抱きついたりしてまとわりつきはじめた。 そこには幸せな家族の光景があった。 俺のなくしたモノが、眩しくてまぶしくて──俺は知らずしらず、目の中に汗をかいていた。 俺にもあんな生活が手の中にあったのに。 子らがお父さんとまとわりついてきたり、あなた、と呼びかけてくれた元妻。 子供たちとはこれからも面会するつもりだから、この先も父親として認定はしてくれるだろうけれど、互いに一緒に過ごす時間は圧倒的に薫くんや元妻とは差が出てくるだろう。 そして、時間の経過と共にその差はいかんともしがたく大きいものとなっていくだろう。 到底あのふたりに適う日はこない。 それを改めて認識させられ、俺は己のこれまでの生活態度や選択が大きく間違ってたんじゃないかと後悔に襲われた。 好きな仕事ができて充実感があり、俺は幸せだった。 だがそれで家族を失うなぞ、本末転倒というものだ。 もはや今となっては、仕事は俺に生き甲斐をくれるものでもなく、幸せにしてくれるツールでもなかった。 それどころか俺から家族を根こそぎ奪っていった悪しきものとなってさえいる。 生きる気力もなくなっている自分に気付き、辛かった。 取り戻せない過去が辛いのだ。 皮肉なものだな。 ひとり身で身軽になっていくらでも好きなだけ仕事ができるのに、もはや仕事は生きがいにはならないようだ。 なんというパラドックス。 人生はどうしてこうもままならないのだ。
「その、由宇子との結婚生活はいろいろあるとは思うけど、上手くいってる?」「結婚生活ですか、う~ん。 もう結婚してかれこれ7~8年になりますけどお陰さまで仲いいですよ。 夜のスキンシップもかかさないし。 キスは毎日してますし、僕ら手繋いで寝てます。 もう僕は由宇子ちゃんラヴですからね、毎日好きって言葉で言ってますし。 あっ、すみません惚気過ぎました」 聞けば聞くほど女性としての幸せを100%彼から与えられていることを知り、更に俺は凹んだ。 なのに、彼の話はまだまだ続いた。「僕ら、肩凝りした時はお互いに揉みあいこしたりもしますよ。 僕が由宇子ちゃんを揉むときは、時々別のことに意識がいって困ることがあるんですけどね、ははっ」 ははっじゃないよ、全く。 毎日毎日、毎夜毎夜、彼らがどんなに仲よく睦まじくこの数年間を過ごしてきたのかと思うと、胸が締め付けられた。 それなのに、彼の惚気は更に続いた。 それは結婚間もない頃の彼らの会話だった。「薫、私が老けて好きじゃなくなったら、他の誰かと結婚していいからね」「そんなことにはならないって。 僕も皺をメークで作って年寄り風味の容貌になるしぃ。 ずっと由宇子ちゃんは僕と一緒だよ。 由宇子ちゃんは最初大倉さん好きになって結婚してしまったけど、僕は昔からずーっと由宇子ちゃん好きでいたんだから信じてほしいな」 いかに薫くんが筋金入りの由宇子ファンなのかを、伺い知るはめになる会話だった。 そしてそれは、未来永劫俺と由宇子との復縁が微塵もないと、知らしめるモノだということも。